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寒の修行
2003/02/02(Sun) 00:00:00
日本の仏教は、主に中国から伝わってきたものですから、中国で発達した暦の考え方もその中に取り入れられています。
太陰暦、いわゆる旧暦と言われるものですが、その中で用いられる「二十四節気」は一年間を24の季節に分ける基準日を示したものです。その節気はそれぞれ、立春、啓蟄、冬至、大寒などと名付けられています。芒種、処暑など、ほとんど使われなくなったものもありますが、その大半は、季節感をあらわす言葉として、今でも使われていますよね。
仏教行事と関係の深いものとしては、まず、春分と秋分がありますよね。この日を中日に、前後7日間を彼岸として、ご先祖様への供養が行われます。
冬の節気では、1月5日の小寒を「寒の入り」として、大寒を経て立春前日の節分までの30日間を、「寒の内」としています。剣道などの伝統的なスポーツでは、この期間の練習を寒稽古と呼んでいますよね。
仏教でも、この期間の修業を寒行あるいは寒修行として、自らを深めるための大切な修業時期と位置づけられているようです。滝に打たれる修行だったり、早朝の寒気の中の托鉢行だったりと、いろいろな形が取られますが、きびしい季節の中でこそ、心を鍛えていく機会ということなのかもしれません。
普段の日常に流されていると、今あることのありがたさに、なかなか気が付かないものですが、きびしい環境の中に立って、そのありがたみがしみじみとわかってくるということでしょうか。
でも、凡人には、冬の朝は、さむ〜いです。
除夜の鐘
2002/12/30(Mon) 00:00:00
もうすぐ年越しの除夜の鐘です。これは、みなさんよくご存じの仏教行事の一つですね。
由来についてはいろいろな説があるようですが、中国の宋の時代から始まったといわれております。私たちのさまざまな煩悩を清めるため108つの鐘をつき、新たな気持ちで新年を迎えることになります。
中国では爆竹をならしたりもするようですが、一般に、大きな音は悪霊を退散させる効果があると考えられているようです。
仏教の法要の中にも、鐘や鈴、さらに錫杖や木魚など、さまざまな鳴り物が使われます。その意味合いとしては、悪霊の退散を願うものもあれば、仏様のご降臨を賜るためのものもあるようです。
そして、それらは、自らの内なる心のありかたと向き合うことにもなるのです。
ことし1年の自分の行いはどうであったか、来年はどうするべきか。それぞれが、108つの鐘を聴きながら、振り返ってみてはいかがでしょうか。
2003年が、よい年でありますように、合掌。
仏教とクリスマス
2002/12/25(Wed) 00:00:00
クリスマスはイエス・キリストの誕生日ですから、もちろん仏教とは直接の関係はありません。お釈迦様の誕生日は、4月8日の花祭りのですから。
じゃあ、美味しそうなケーキを横目でにらんで、寂しく通り過ぎなければいけないかというと、そんなことはありませんよね。みんなといっしょに楽しみを分かち合うことができるなら、どんな機会でもいいんですよね。
それでは、仏滅とか、13日の金曜日とか、日が悪いというような場合は、どうしたらいいんでしょうか。
悟りを開くということは、いろいろなとらわれから離れることといわれています。日が悪い、方角が悪いということも、一つのとらわれと考えられます。
だから、無視するという意味ではありませんが、一つの警鐘としてとらえ、みずからの行いが道に外れていなかったか、見返るためのきっかけとして、とらえ直すことができるんですね。
せっかくの良い心がけも、時間が経つと忘れてしまうのが凡人のさがですから、いろいろな機会を設けて、心の立て替えを行うことが、大切なんですよね。
クリスマスのそんな機会の一つになるんでしょう。
南無の心
2002/11/16(Sat) 00:00:00
お経やお題目を唱えるとき、「南無」という言葉がよく使われますよね。
宗派によって、下に付くものは変わってきますが、「南無阿弥陀仏」であったり「南無妙法蓮華経」であったりと、だいたいが、その宗派で重んじる経典の名前や、仏さんの名前が付きます。場合によっては、「南無大師遍照金剛」というように教祖などその宗派の伝統につながる人の名前が付いたりします。
ちなみに「遍照金剛」は、真言宗の祖、空海のことですね。
この「南無」は、インドの梵語のnamas(ナマス)の変形のナモーという言葉からきています。仏教の経典が中国に渡った時,その発音をそのまま漢字に当てはめたわけです。ですから、漢字自体には意味はありません。「阿弥陀」というのも、そのまま発音を漢字で表記したのものです。
「南無阿弥陀」はナモーアミダというのが、原語に近い発音となりますが、日本では、漢字をそのままナムと読む方が多いようですね。
さて、この「南無」の意味ですが、「敬いの心をもってお礼します」というのが原語の意味のようで、仏教では「帰依します」という表現がもっぱら使われます。
もう少し言葉を足せば、「南無○○○」とは「○○○の教えを信じて守り、悟りに向かって歩んで行きます」というところでしょうか。
たんに、仏さんや経典にすがって助けてもらうというよりは、もっと積極的な祈りの気持ちを表しているものなんですね。
しょうわる
2002/10/28(Mon) 00:00:00
「あいつは、しょうわるだから」と言いますが、漢字で書けば性悪となり仏教用語では、「ショウアク」と読むようです。
性悪説、性善説というのは、孔子が生まれた古い時代から、人間に対する考え方の出発点として、しきりに論じられきたものです。
では、仏教では、どちらの立場に立っているのでしょうか。
宗派によって、いろいろな説明があるようですが、ほっておけば悪いことをするものだという意味では、性悪説に近いのかも知れません。ただ、必ず良い仏性を持っており、修行などを通じて、良いさとりを開いていくと考えますから、性善説とも言えますね。
良いことを行うことを仏教では「修善」といいます。伊豆に修善寺(しゅぜんじ)というお寺と町がありますが、名前の由来はここからきているんですね。
修善を重ねていくことで、少しずつさとりに近づいていけるんですね。いずれにしても、凡人は、ある日突然さとる、ということではないんです。少しずつの積み重ねが、大切なんですね。やっぱり。
経を読む
2002/09/12(Thu) 00:00:00
仏教で大切な修行の一つが、お経を唱えること、読経(どっきょう)です。
ただ、黙って心の中で唱えるのでなく、声に出して読むことが求められます。読経自体にも、いろいろな功徳があると考えられているんですね。
読経にもちいられるお経も、いろいろな種類があります。漢語をそのまま読むこともあれば、日本語の読み下し文の場合もあります。漢語で読まれる代表的なお経は、般若心経(はんにゃしんぎょう)でしょうか。「・・空即是色、色即是空、・・・」というよく知られた表現が出てくるものです。
それ以外に、呪(じゅ)とよばれ、いわゆる呪文のように唱えられているものもあります。良くTVでも、山伏の姿をした人が、火を焚いて祈念するような場面で、「のうまくさんまんだ〜、ばーさらだ〜・・・」と、呪を唱えているのをご覧になった方もいるかとおもいます。
これは、決して意味のない文言を唱えているのではなく、もともと、パーリー語やサンスクリット語など、古代インドの言葉で書かれたお経を、そのまま原典の発音に沿って読んでいるものです。ちゃんと、意味のある言葉なんですね。
日本の経典の大部分は、中国を経て日本に伝わったものです。中国の経典も、もともとはインドから伝えれたパーリー語やサンスクリット語の経典を、漢語に翻訳したものです。しかし、一度漢語に翻訳すると原典は破棄されてしまい、なぜか後世には伝えられませんでした。
漢語にうまく訳せなかったことばが、原典そのままの音調を残して短い呪として経典の中に残されたようです。先の般若心経の中にも、一部、「ぎゃーてーぎゃーてー・・・」と、原典の発音が呪としてそのまま残されています。
その後、東南アジアやチベットなどから、インド原典がもたらされたり、さらに、最近になって進展している古代インドの言語学の研究の成果によって、呪の本来の意味もかなり明らかになってきているようですね。
中には、明らかに間違って唱えられている、という例もあるようで、仏教の各宗派の中では、いまになって見直しがされることがあるようです。
「涅槃」の日
2002/08/25(Sun) 00:00:00
お釈迦様の誕生日である4月8日は、はなやかな花祭りとしてのお祝いがお寺さんで行われます。
小さな誕生仏に、甘茶を注いでお祝いするというのは、みなさんもご存じですよね。これは、お釈迦様が生まれたとき、竜王が天から香水の雨を降らせて祝ったという、お経の仏伝にそって行われているものです。誕生仏も、右手が天を、左手が地を指し示しているというスタイルで、これも、誕生直後の様子にそったものなのです。
ところが、お釈迦様の亡くなった日については、みなさんはご存じでしょうか。2月15日で、仏教のお寺さんでは、涅槃会という法要が行われています。このことは、あまり一般には知られていないようです。甘茶かけのように、決まった親しみやすい作法があるわけではないことも理由なんでしょうか。
しかし、伝統仏教の中では、これは誕生日と同じように重要な法要として位置づけられています。
涅槃仏という仏像のスタイルがあります。ほとんどの仏像が、座ったり立ったりした姿で、手に独特の印を結んだり、仏具を携えているのにたいし、この仏像は、右手を枕にして横たわっているだけです。同じようなスタイルの仏さんを描いた、涅槃図という仏画もあります。
このスタイルは、まさにお釈迦様が亡くなろうとしている時に、最期の説法を行っている様子を表したものだそうです。その時の説法の内容を書きしるした経典が「涅槃経」であるとされています。
その「涅槃経」では、お釈迦様が死の床についていることを嘆き悲しむ人々の様子を記述することから、始まっているそうです。これでは、ちょっと一般に親しむ行事にすることは、難しいのかもしれませんね。
「涅槃」とは、煩悩や因縁から解き放たれた状態を示すことばであり、直接、亡くなることを指し示す言葉ではありません。しかし、お釈迦様の場合は、生身の束縛から自由になり、常住の存在になる、というようなことから使われているようです。
いつでも見守ってくれる存在になる、ということなんですね。
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